Warning: Error while sending QUERY packet. PID=13851 in /home/uls/public_html/wordpress/wp-includes/class-wpdb.php on line 2349 大田川から鏡石(笠石宿) - 街道を歩く旅

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2010.06.18

大田川から鏡石(笠石宿)・・・(旧奥州街道)

「武光地蔵」のある森を抜けて坂を下ると、太田川宿に入って行く。進んで行くと左に「常願寺」が見えてくる。遠くから見ても、枝垂れ柳の大木がお寺全体を覆っているように見える。
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常願寺の本堂は、建替えられていて真新しいが、枝垂桜は「願い桜・樹齢600年」の表示杭が立っていた。謡曲隅田川の梅若伝説の人買い信夫藤太は、この地の出身で、梅若伝説に登場する梅若丸という少年の悲運な死を哀れんで古くより梅若丸の命日の旧暦3月15日に村指定無形民俗文化財「太田川梅若歌念仏踊」が古くより行われていた。ところが、昭和50年代の終わり頃より行われることが無くなり、四半世紀もの間途絶えてしまっていた。しかし、2009年4月10日(旧暦の3月15日)に復活させ常願寺境内で披露したとのこと。
このあたりが宿の中心で、道の片側には水路が流れ、立派な家が並んでいる。
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蔵か住居か不明の石造りの家屋があり、その先で道は丁字路となるが、その突き当りには「愛宕神社」の鳥居が建っている。しかし、神社は荒廃していて、真新しい常願寺との対比が思われる。
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愛宕神社の鳥居から150mほど進み左折して、緩やかな峠道を上がって行く。左に多数の石碑が、新しい石の社を囲むように集められていた。
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峠を一つ越えると、左側に溜池があり、さらに林の中の道を進むと、左側に見逃してしまいそうな小道がある。これが旧道である。
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小道を進むと、竹藪の脇を通る道で、笹の葉が積もった軟らかい感触の道であった。これが本来の人が歩く道なのであろう。
下右の写真は、旧道から舗装道に出て、振り返って撮ったものである。
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直ぐの左に「新池」がある。農業用水として利用されているのだろうが、樹木にも囲まれ美しい。
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進んで、国道4号線を横切ると、踏瀬(ふませ)宿である。宿の入口の左には、枝垂桜の木に隠れるように愛宕神社の鳥居が見えており、周辺には二十三夜塔などの石碑が多数建っている。
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静かな街並みを進んで行く。門の両側に白い蔵を構えた屋敷があり、後で調べたら踏瀬宿の庄屋で問屋を務めた箭内(やない)家であった。貴重な古文書多数残っているとのこと。また、庭先には、明治天皇聖蹟之碑がある。
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左に、「慈眼寺」がある。枝垂桜の大木が茂っている。この辺りのお寺は枝垂桜の大きな木が植えられているのが多く見られる。桜の季節は見事であろう。
「慈眼寺」を過ぎると、松並木が見えてくる。説明板によれば、白河藩主松平定信が街道沿いに2,300本の松を旅人の日除け、風除けとして植えたのが始まりで、現在の松並木は明治18年(1885)年頃に補植されたものとのこと。
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松並木を抜けると、右側に「卯右衛門茶屋と文七茶屋」という看板があった。ここ大和内七曲がりはその昔「富士見峠」と称され、峠を越えて二つの茶屋が軒を連ね、大縄を使い数十尺の深井戸からくみ上げる美味しい水が名物であった。明治中頃、鉄道の開通で街道がさびれ店じまいを余儀なくされたが、その井戸は現在もここに残っている。
この先で、「あぶくま高原道路」を陸橋で渡る。
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「あぶくま高原道路」を過ぎると「七曲り峠」となり、林間の気持ちの良い道となる。この道は明治になり造られた旧国道で、それ以前の街道は左の木立の中にあるが、国道工事で寸断され、放置されて通るのは困難であるとのこと。そして、「七曲りの峠」を抜けると「大和久宿」である。
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承応元年(1652)建立の「山王寺」がある。山門の両側には立派な枝垂桜の木があるが、この山王寺は、樹齢は約200年の臥竜の松が有名だという。しかし、松枯れ病に犯されたと見え、松葉が茶色く変色していた。街道を歩いていると松の名木が松枯れ病で枯れてしまったのに時々出くわすのは、本当に残念である。
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先に進むと、雑木林の中に執心地蔵尊が12体屋根付きで建っていた。
ここを過ぎると、大和久宿から奥州街道33番目の宿場・中畑新田宿に入って行く。集落の中程に幸福寺があり、戊辰戦争時の野戦病院となったところだといわれる。境内に戊辰戦争時の旧幕府軍の戦死者の墓がある。
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道路の反対側には、大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)がある。山の神、海の神、戦いの神として歴代の朝廷や武将から尊崇を集めた神社である。
交差点を渡ると、左に枝垂桜の大木の茂る「しあわせ観音」がある。参道の石畳は苔に覆われている。
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そして、進むと「矢吹宿」である。
矢吹宿は天正6年(1578)に奥州街道の宿場として成立し、天正18年(1590)に町割りが行なわれたとされている。江戸時代に入り宿場制度と参勤交代制度が確立し、本陣なども設置された。そして、当時の矢吹宿の名物が蕎麦だったようである。
宿の中心付近であろうか、右側に慶応元年(1869)に、初代代吉氏が良質の水を求めて白河で酒造りを始めた大木代吉本店がある。早くから自然に恵まれた環境を活かした酒造りを目指し、有機農法米や独自の酵母を使用して、ふくよかな香味を持つ、やや辛口でスッキリとしたお酒を造っているとのこと。
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進んで行くと、左に会田病院の大きなビルが見え、その先の矢吹町北町に入ると「下ノ地蔵」と呼ばれている地蔵がある。
小学生の女の子達が、大騒ぎで留めてある軽トラックの運転席に迷い込んだツバメを助けるのに夢中になっていた。
矢吹町を抜けて、1.5Kmほど進むと街道は国道4号線に合流し、鏡石町に入って行く。新菊島温泉の大きな看板がある。1軒宿の温泉で、アルカリ性単純泉とのこと。
そして、200mほどで、再び街道は左に国道から分かれて行く。奥州街道35番目の宿場・久来石(きゅうらいし)宿の入口である。
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下左の写真は久来石宿の街並みである。静かな街を1.5Kmほど進むと、街道は国道4号線を横切って、奥州街道36番目の宿場の笠石宿に入って行く。直ぐに、右側に熊野神社がある。無形文化財の壮麗な舞で有名とのこと。
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笠石宿の街並みである。進んで、宿の中心付近に「寶泉寺(ほうせんじ)」がある。丁寧に境内の掃除を行っていた。
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右側の民家の前に「明治天皇御駐輦(ちゅうれん)之所」碑があった。明治9年6月14日とある。そして、進むと、交差点を渡った左に笠地蔵がある。由来記には、明暦4年(1658)の記述はあるが、他は不詳である。近世になり地蔵信仰が盛んになり、この板碑に笠があるところから笠地蔵として里人の信仰と結びついて今日に到ったとある。また、覆いかぶさっている笠地蔵の枝垂桜は推定樹齢250年、目通り2.7m、樹高18.5mと記載されていた。
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時刻は3時半近くだが、今日は体調に難があり雨も降り始めたので、ここで終えることにして、鏡石駅に向った。駅に着いたのは3時34分で、3時36分の黒磯行きの電車に乗ることができた。

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Posted at 11:23 | Category: 中山道 | 2 Comments